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愛はオカマを惜しみなく

西のオカマの戯言よ。

ラブスメルは突然に

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 プルースト効果と呼ばれる心理現象をご存知かしら。

 嗅覚や味覚から過去の記憶が蘇ることよ。フランスの作家であるマルセル・プルーストの小説で、主人公がマドレーヌを紅茶に浸したとき、その香りで過去の記憶が鮮やかに蘇ったという描写から名付けられたの。
 五感の中でもっとも深く、長く刻まれるものは嗅覚だそうよ。人は香りの中で思い出を紡ぎ、思い出の中に香りを永遠に閉じ込めるのね。

 誰にでも、忘れられない香りがひとつはあるのではないかしら。
 私にも、とある昔の友人を思い出す、忘れられない香りがあるの。

  当時二十歳だった私は、身も心も青く、地球上で最も無知な若者だったわ。ゲイバーに通っては隣の男に声をかけ、思わせぶりな素振りで相手を試し、承認を得ることで満足していたからっぽな日々。そんな空疎な毎日の中、バーで知り合った年上の男が、若さゆえの、不安定な私の梁の隙間を埋めてくれたの。

 彼は100年の時を生きたかのように、何でも知っていたわ。中国の貧しい農村の生活や、イタリアの街の乾いた風の寂しさや、カナダの流氷の音のこと。オペラのように情緒たっぷりに、それでいて無邪気に情景を伝える彼の話を、ずっと聞いていたいと思った。世間知らずで、仕事もできず、ふさぎ込むような日々を過ごしていた私の世界に絵筆が踊ったわ。
 ただ、彼には年上の恋人がいて、いつも話の終わりには、どれほど恋人のことを愛していて、どれほど重要な存在であるかを語っていたわ。「俺のことは好きになるなよ」と遠回しに言われているのは分かっていたけど、それでもよかった。憧れと恋を勘違いするような愚か者にはなりたくないと思っていたから。

 思えば彼はチェーンスモーカーで、いつも煙草を吸っていたわね。浅い夕霧のようなマルボロの煙が、ふたりの間から晴れることはなかったわ。

 あくまで友人として、週に1度はお互いの家を行き来する関係が1年近く続いたわ。語学が堪能な彼からは、異国の生きた話がたくさん聞けたし、若者らしいくだらない話もたくさんした。会うたびふたりで笑い転げていたから、少なからず、私のほうから与えられるものもあったのかもしれない。

 そんな何でもない日々を過ごす中、彼から突然、今すぐ会いたいと連絡があったの。クローゼットから流行の服を取りだして、ワックスで髪を丁寧になでて、それから彼のもとへ急いだわ。
 アパートの薄汚れた呼び鈴を鳴らすと、「入って」と力ない声が聞こえたわ。どうしたのかと尋ねても、しばらく黙ってうなだれていた。

 彼の恋人が亡くなった。
 自ら命を絶ったそうだけど、何を理由にこの世をあとにしたのかは知り得なかったみたいだわ。恋人を生に繋ぎとめるために、自分が何者にもなれなかった後悔と虚しさが、マルボロの煙に代わって部屋の隅々にまで満ちていた。

 それからなんとなく気まずくなって、彼とはしばらく会わない日々が続いたの。そして、会わなくなって3ヶ月がたとうとしたときに連絡があった。「引っ越すことになったから、最後に会いたい」と。
 いつもの部屋で、いつものようにくだらない話をたくさんしたわ。これから2度と会うこともないだろうという予感を、お互いの笑い声でかき消して。
 亡くなった恋人の話は最後までしなかったけど、ふと、彼が香水を変えていたことに気が付いたの。いい香りだねと言うと、そうだろうと誇らしげだったわ。恋人が使っていた、エルメスのオードトワレの香りだそうよ。

 深夜になって、自然と会話もなくなって、帰り支度を済ませると、まるで地下深くのシェルターで肩を寄せあっているかのように静寂がふたりを包み込んだわ。そして、彼は何も言わずに私を抱きしめた。じわりと彼の体温が伝わって、目をつぶると、首元からかすかに心地よい香りがした。彼の恋人の香りだった。
 玄関先で、わざとらしい明るい声でさよならを言って、そして、帰りの車の中で声をあげて泣いたわ。何者にもなれなかったのは、彼も私も同じだったの。
 狭いワンルームの自宅に帰って、着替えもせずベッドに倒れて、そのまま朝まで眠ったわ。

 あれからもう、10年がたとうとしているわ。
 少し前のことだけど、久々に彼へメールを送ってみると、アドレスが存在しないという味気ないエラーメールが返ってきたの。
 ゲイは横のつながりを持たない場合が多いから、メールやSNSでの連絡が途切れると、生きているのかすらわからなくなるのよ。でもね、2度と会えない予感は当然のように当たっていたけど、悲しさも切なさもないの。10年前とは何もかもが変わってしまった慌ただしい日常に、また身を委ねるだけだから。

 香りは失くすことのできない写真のようね。先日、街ですれ違った若者から、当時の彼の香りがしたわ。思い出の中に閉じ込めた香りは、まだ消えていなかったのよ。春の柔らかな風の中で、彼の息遣いが聞こえたわ。

 思い出話のはじまりは、胸をえぐられるような香りがいい。ほのかに熱を帯びた香りがいいわ。