愛はオカマを惜しみなく

西のオカマの戯言よ。

カミングアウト

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 安定した企業に就職して、昇進して、結婚して、子供を作って、穏やかな家庭を築く。毎月の仕送りと、たまに旅行へ連れて行って、母の日、父の日には少し高価なプレゼントを贈る。ありふれた、完璧な親孝行だ。 
 中でも孫を抱くことは、親にとってこの上ない幸福なのだろう。祖父母が私を追いかける目を見て思う。頭をなでる手も、うなずき、承認する声も、親や恋人のそれとは違う、キャンドルにあかりを灯したような慈愛に満ちていた。

 私は同性愛者で、愛する人と結婚し、子供を作ることができない。

 親を失望させたくない、悲しませたくない。なにが裏切りなのかわからない葛藤の中で、本当の自分を隠し続ける。親にカミングアウトするゲイは、生命の繋がりを断つ覚悟を、愛すべき人たちに背負わせるのだ。

 私がカミングアウトしてから、もう何年もの時が経つ。
 これは、一介のゲイの、まぎれもない人生の分岐点だった、母への告白の話だ。

 母は、いつだって私を責めなかった。
 テストの点が悪くても、思春期に家族を拒絶しても、受験をせず毎日遊んでいても、新卒で勤めた会社を辞めてしまっても。金もかかったし、世間体もあっただろう。エリートコースを進む兄と比べることなく、こんな愚かな私にも、分け隔てなく愛情を注いだ。
 ただ、嘘をついたとき、卑怯な手を使ったとき、他人を推し量らず、身勝手な行動をとったとき、母は私を思いきり叱った。頬を叩いて、善い行いが他人を救い、自らを救うのだと教えてくれた。母は、いつだって私を責めなかった。
 大人になってからは叱られることもなくなったが、ただ一度だけ、強い口調で叱られたことがある。ゲイだとカミングアウトしたときだ。

 当時働いていた会社は一部上場の優良企業だったが、人間関係に疲れ果て、逃げるように退職し、それからしばらく実家に居ついていた。
 一生を共にしようと決めていた恋人に振られ、親友だと思っていた友人からは裏切られ、再就職も決まらなかった。何をやってもうまくいかず、自暴自棄になっていた。
 昼間から酒を飲み、やりたくもないゲームやネットで時間を潰す。日が昇るころに寝て、日が沈むころに起きる生活。不安と焦りと怒りと悲しみが押し寄せて、一層アルコールに溺れていった。

 世間が悪い。私に嘘をつかせる世間が悪いのだ。
 クローズドな同性愛者は、社会に出ればあらゆる嘘を重ねなければならない。
 私は男にも女にもなりたくなかったが、世間がそれを許さなかった。いかなるときも男であらねばならなかった。
 善い行いが他人を救い、自らを救う。嘘をつくことは、悪いことなのだ。

 酒びたりの生活も長くは続かず、貯金も底をつき始め、両親の顔を見るたび憎しみが湧いた。
 なぜ私だけにこの運命を背負わせたのか。同じ屋根の下に生まれた兄は、聡明で美しく、そして男らしい。魂も魂の器もちぐはぐで醜く、滑稽そのものである私に人間としての価値はなかった。

 その日は特に機嫌が悪く、酒の量もあいまって、リビングのソファに座る母親にぐちぐちと管を巻いた。
 なぜ普通に生んでくれなかったのか。なぜ兄を完璧に生んだのか。少しはマシに生まれていたら、もっと自信を持てていたら、こんなことにはならなかったのに。
 普段は柳に風と受け流す母だったが、あまりのしつこさに倦み疲れたか、そのときだけは眉をひそめ、体をこちらに向けて問いかけた。

「私はあなたを普通に生んだつもりよ。どうしてそんなに卑屈になるの?」

 しまった、と思った。親にカミングアウトするつもりはない。なにが普通でなく、なにを責めたてているのか。またひとつ、とっさに嘘をつかねばならなかった。

「ねえ、普通ってどういうことなの?」

 沈黙が続いたが、黙っていることが答えとなった。

「もしかして、男の人が好きなの?」

 なにも言わず、ただ頷いた。
 最初から母に隠し事などできなかったのだ。もう少し早く打ち明けていれば、母に気苦労をかけることもなく、自分自身も楽になれていたのだろうか。
 また少しだけ沈黙が続き、先に口を開いたのは母だった。

「そっか。そうなのかなって思ってたよ。普通に産んであげられなくてごめんなさい。でもよかった、私は女の子がほしかったから。一緒に買い物をしたり、彼氏の話をしたり、前よりずっと楽しくなるね。」

 母はとうの昔に私のすべてを受け入れていて、覚悟を決めていたのだ。先ほどまでのいぶかしげな表情は消え、にこにこと穏やかな笑顔で私の心の影を拭おうとした。
 無理解と誤解で否定されたほうが互いのためだったのかもしれない。か細く老いた小さな肩に、私と同じ重荷を背負わせるのだから。

「孫の顔を見せられなくてごめんなさい。」

 ありがとうの一言が言えなかった。謝ることで解放されたかったから。孫を抱くことで、生物としての役割を果たしたのだと、親として人生の選択が正しかったと思えるだろうから。
 目線を落とし、うなだれる私に母は強い口調で言った。

「孫の顔を見るのが幸せだなんて誰が言ったの? 私の幸せをあなたが勝手に決めないでちょうだい。あなたが健康な体で、ただ幸せでいてくれることだけが私の幸せなのだから。」

 母はおもむろに立ち上がり、リビングの隅のハイチェストから小さな箱を取り出した。紺色のベルベットが深く光り、古めかしくも今なおその存在を知らしめているようだった。蓋を開けると、純朴で美しい、飾り気のない指輪があった。

「でもね、家族ってとってもいいものなのよ。もしも将来、あなたが寂しさを感じたら、親である私たちのことを思い出して。この指輪を家族だと思って過ごしなさい。」

 指輪は両親の結婚指輪だった。左手の薬指にはめてみると、あつらえたようにぴったりで、母の微笑みを映しだす前に、白銀の輝きが少しだけにじんだ。

 それからしばらくして、田舎の小さな会社に就職した。昇進して、部下もできて、上司と朝まで飲んで、ああでもないこうでもないと、相変わらず毎日管を巻いて過ごしている。
 親から受けた愛情を超えて、親孝行ができるとは思わない。感謝の思いすら伝えきれない。世間の言う真っ当な人生を歩むことは無理かもしれない。

だけど、私は、俺は、幸せだよ。
少しくらいは、親孝行ができただろうか。